EPISODE 6
島から消えゆく鯨食文化を追究! 消滅危機の“鯨ずーしー”はどんな味?
[本記事について]
壱岐における捕鯨と鯨食文化について特集した記事です。文中には、捕鯨に関する記載がございますが、壱岐の昔からの伝統をお伝えする目的で掲載しております。ご理解賜りますようお願い申し上げます。
60年前の定番料理が消滅の危機!?
壱岐には壱岐のずーしーがあった
宮崎県椎葉村で調査した“ひえずーしー”。山で獲れたイノシシの肉を、肉から出る脂で炒め、稗(ひえ)と米と水を加えて煮込んだ雑炊だ。調味料は塩だけなのに、五臓六腑に染み入る旨さだった。



あの味を知ってからというもの、私たち編集部は皆すっかり“ずーしー”の愛好家になっていた。中には簡易版ひえずーしーが家庭の定番料理となった人もいるほど。だから、今回の探検前の調査で、壱岐在住の文筆家・小坂章子(こさか あきこ)さんの口から“鯨ずーしー(ずうしい)”という料理名が出たときには場が沸いた。椎葉村からこんなに離れた場所にも“ずーしー”があるなんて!

だが、島の北東部にある芦辺町出身の小坂さん自身は鯨ずーしーを食べた記憶がほとんどないという。小坂さんがご近所さんの喜代子さん(78歳)から聞いたことによると詳細はこうだ。
―60年ほど前は鯨が安くで売られていたから、鯨ずーしーは2~3日に一度は食卓に上っていた。鯨ずーしーに使われている麦と米は2:8の割合だった。その頃の壱岐は食材が少なく、一汁一菜の時代だったから、野菜などでかさ増しでき、米が少なくて済むずーしーをよく作っていたのではないか。今は年に一度くらいしか作らなくなったし、ほかの家庭でも作られていないようだ。―
おや?もしかして鯨ずーしーは消滅の危機に瀕しているのかも…。確かに、壱岐の飲食店を調べてみても鯨ずーしーを提供している店は見つからない。島の民宿やお土産屋で尋ねてみても、鯨ずーしーを知る人はいなかった。

江戸時代の壱岐には“鯨王”がいた!?
勝本町で歩いて探す大富豪の足跡
島の北西部にある勝本町の名所を歩いて回るツアー「勝本歴史まち歩き」のボランティアガイドで、壱岐古文書研究会の会長でもある松崎靖男(まつざき やすお)さんも「鯨ずーしーは食べたことがないし、聞いたこともない」と言う。
松崎「刺し身や、皮のあたりを薄切りしてゆでて食べる“湯かけ鯨”、鯨とおから、野菜を入れた味噌汁“鯨汁”なら子どもの頃に食べていたが、今ではとんと食べなくなりましたね。もしかすると鯨ずーしーも昔は食べられていたのかもしれませんが、私は知らないし、この資料にも書かれていません」

松崎さんが見せてくれた「壱岐島の料理-1977-」は、当時の壱岐の高校生が郷土料理を紹介している本で、鯨料理の章に記されているのは「鯨の酢あえ、鯨のさしみ・湯かけ、油いため、おからいため、おから汁、くじら汁、煮込み物、砂糖煮」のみ。となると、この頃すでに鯨ずーしーはメジャーな鯨料理ではなかったということになる。
松崎「江戸時代の壱岐では鯨漁が盛んで、勝本にも鯨のおかげで財を成した土肥家という一族がいました」

松崎「中でも隆盛を極めたのは“鯨王”と呼ばれた4代目当主の土肥市兵衛で、今も残る土肥家の大邸宅の跡地からその財力が推し量れます。塀の一部だけでも長さ90メートル、高さ7メートルもあるのです」

ほかにも、天井板に屋久杉を使った「土肥家新宅地跡」や、4代目・土肥市兵衛が改修費用を寄進したと伝わる神社「聖母宮(しょうもぐう)」など、勝本地区にはかつて莫大な富を誇った土肥家の痕跡が色濃く残っている。



大富豪になれる人がいたほど鯨がたくさん捕れて、鯨料理も食べられていたことは確かなのに、なぜ鯨ずーしーを知る人がほとんどいないのだろうか。
弥生時代から伺える壱岐と鯨の関係
捕鯨で財を成した鯨組の繁栄と衰退
壱岐と鯨の歴史と関係をもっと深く知るべく、私たちは「壱岐市立一支国(いきこく)博物館」副館長の河合恭典(かわい きょうすけ)さんを訪ねた。河合さんも鯨ずーしーは見たことも食べたこともないと言う。


河合さんはまず、「弥生時代から、壱岐の人々と鯨の間には深いつながりがあったのです」と解説を始めた。
―弥生時代には入り江に迷い込んだり、死んで岸辺に漂ってきたりした鯨を捕っていたとされている。この頃は肉を食べるためではなく骨を漁労具に活用するのが目的だったようで、弥生時代の遺跡である原の辻遺跡からも鯨の骨やその骨で作られた銛(もり)などが出土している。室町時代後期の1500年頃には壱岐で初めて鯨を銛で仕留めた人がいるとの記録が見られるが、いわゆる“捕鯨”が始まったのは江戸時代初期の1600年頃。捕鯨は「鯨組」と呼ばれる集団で行い、土肥家も「鯨組」の一つ。この頃は銛漁が中心で、水夫が鯨に銛を投げて突き刺して弱らせた後、「刃刺(はざし)」と呼ばれる仕留め役が海に潜って腹側から心臓を狙う。鯨の反撃で水夫や刃刺が亡くなるのも珍しいことではなかったが、それでも得られるものの方が大きかった。―


―江戸時代中期の1700年後半になると「網かけ(網かけ銛突き)漁法」という、鯨を網にかけて弱らせてから心臓を突く方法に変わり、捕獲数が大幅に増えた。それでもやはり捕鯨が大変危険なことには変わりはなかったが、「一頭捕れると七浦潤う」といわれるほどの収益があったため、捕鯨はますます盛んになり、多いときは年間で200~250頭が陸に上がった。壱岐では春と秋の年2回、出産や子育てのために周辺の海を鯨が通っていた。種類は様々だが、特に好まれていたのはセミクジラ。好奇心が強く船や人に近寄りがちなことから狙いやすく、おまけに肉や脂の量も多い。肉は食用、脂は油を搾って島内では灯明や農薬として重宝されていた。―

河合さんによると当時の“鯨王”は今でいうアラブの石油王のような存在だったらしい(アメリカでは、鯨油が灯油や産業革命で増加する機械の潤滑油に利用され、欧米の近代化を支えた。それゆえ捕鯨産業は資産家の投資対象となっていた)。そう聞くと勝本浦で見た土肥家の数々の痕跡も納得できる。ところが最盛期は1770年頃で、1840年頃になると捕れる鯨の数が減り始め、1860年頃には年間1桁台に。そして明治時代のはじめの1869年には土肥鯨組の系譜が、19世紀初頭には壱岐での捕鯨が終わりを迎えた。
元教員で、壱岐の歴史研究に力を注いだ中上史行さんは著書「壱岐の風土と歴史」で不漁の理由を「江戸時代の末期から(火薬を使う)アメリカ式捕鯨が盛んになり、鯨が日本の沿岸に近づく前に外国船が沖合で捕っていた。その影響で回遊してくる鯨の群れが急激に消え失せた」と述べている。また最新の研究では、それ以前の時代からセミクジラなどに一定の捕獲圧(※)が長くかかり続けてきたことや、欧米の捕鯨船の操業によってダメージを受け、一気に減少したとも考えられているようだ。
※捕獲活動が生物種や個体群に与える影響
河合「近世・近代では、鯨は塩鯨(塩漬け)がよく食べられていました。保存が効き、年中食すことが可能でしたから。ただ、壱岐での捕鯨が終わると、食材として身近だった鯨が遠い存在となっていきます。私が調べたところによると、今でも鯨料理の中でよく作られているのは、鯨なますと湯かけ鯨の2つで、正月や祝事の時に食べられています。鯨ずーしーについては推測ですが、働き者の壱岐の人たちが手軽に済ませられる食事としてずーしーを好み、そこに鯨を入れることで、鯨の脂が体を温めてくれたのではないでしょうか」
鶏や豚の肉では再現できない
鯨肉の旨みがずーしーの味の決め手
私たちは最後の手段として「壱岐地区生活研究グループ連絡会」を頼り、松熊節子(まつくま せつこ)さん、山口繁子(やまぐち しげこ)さん、入江久子(いりえ ひさこ)さんに、鯨ずーしーを作ってもらうことにした。松熊さんたちは壱州豆腐、ぶりわた汁に続いて3回目の登場となる、島料理の達人三人組だ。

全員が壱岐生まれ、壱岐育ち。だからもちろん壱岐の食文化に詳しいのだが、松熊さんと山口さんは「鯨ずーしーはほとんど食べたことがないし、作ったこともない」と言う。唯一、入江さんだけが鯨ずーしーの記憶を持っている。
入江「私の出身は鯨伏(いさふし)という地名で、それが関係あるのかないのか分かりませんが、母はよく鯨料理を作ってくれていました。赤身は刺し身で、七味か一味を振った醤油を添えるのが定番。野菜と一緒に味噌炒めにしたおかずもよく食べました」

入江「でも、鯨ずーしーは、ずうーっと昔、小学生の頃に何度か食べたことがあるだけなんです。それでよかなら、その時の味を思い出しながら作ってみましょう」
入江さんの記憶によると、鯨ずーしーの主な材料は脂鯨(あぶらくじら)と米と野菜。今回はささげ(小豆<あずき>に似たマメ科の植物)と大根、薄力粉で作る“だご(団子)”も入れる。脂鯨とは、「皮鯨」「黒皮」とも呼ばれ、背中の皮の肉のこと。現在壱岐では、他県で捕獲された鯨の肉が冷凍のブロックで売られており、鯨ずーしーには食べやすい大きさに薄切りして使う。



作り方はとても簡単だ。まずはいちょう切りにした大根と米、ゆでたささげを鍋に入れ、水をたっぷりと加えて弱火で煮る。その間に小麦粉を熱湯でこね、平らな円形のだごにしておく。米に火が通ったら脂鯨を加えてさらに煮る。汁気が少なくなったらゆでただごを加え、薄口醤油で味を調えて完成。



椀から立ち上る湯気の中に、豆特有のほんのりと甘い香りを感じる。鯨の脂をまとってつやつやと輝く米とだごを口に入れると、味付けが薄口醤油だけだとは思えないほど複雑な味がする。

脂鯨のまったりとした旨みと、ささげの淡白な甘みを吸った米は噛むほどに味が出て、だごのもちっとした食感が小気味よい。さらに、みずみずしい冬大根が口の中を爽やかにリセットしてくれるから箸が止まらない。それにしても、やはり偉大なのは脂鯨だ。固体の脂が加熱により液体化して全体に広がり、他の食材の味わいを格段に上げている。鶏や豚の肉では再現できない肉と魚の中間のような独特の脂の旨みが、この料理の肝である。
入江「私の母が作る鯨ずーしーには、さつまいもやかぼちゃなど、その時に家にある野菜がたっぷりと入っていて、鯨や米の量はそう多くなかったと思います。はっきりとした記憶はありませんが、おいしいなあと感じたことだけはよく覚えていますよ」
松熊さんと山口さんは鯨なますと湯かけ鯨を用意してくれた。鯨なますは細切りした大根とにんじんを脂鯨と合わせ、甘酢で和えて作る。これもまた鯨のコクのある旨みが野菜に絡んでおり、焼酎が進みそうな味わい。鯨のくにゅっとした独特の食感と、シャキシャキの野菜の組み合わせも愉快で、編集部員たちは目尻を下げて忙しそうに口を動かしている。

湯かけ鯨は塩蔵の脂鯨をさっと湯通しし、醤油を付けて食べる。噛むと脂の旨みと甘みがじゅわっと口の中に広がる。さらっとして脂っこくないから何枚も食べてしまう。

鯨料理全般が壱岐の食卓から消えかけている理由を、3人は「鯨の値段が高くなったからよ!」と口を揃える。現在、鯨肉は100gあたり約600円で牛肉よりも高価だ。それに、スーパーにいつも並んでいるわけではない。わざわざ手に入れる必要のある高級食材だから、料理に使いたくても使えなくなってしまったということなのだろう。

その中でも鯨ずーしーがほぼ消滅している理由は、難しい話ではなかった。食材が高くなり、手に入りにくくなり、そして、日本が貧しかった時代の知恵の食・ずーしーそのものが必要とされなくなったからだ。だが、入江さんの記憶と、湯気が立ち上る椀の中に、その味は確かに存在している。そして、その味は、消えてしまうにはあまりに惜しい。
時代の流れとともに大海原のようにうねりながら変化する世の中。海に囲まれた壱岐にもその影響は確実に及び、島の食卓や人々の暮らしも大きく変わりつつある。かつて身近な食材だったうには大変貴重となり、郷土料理の壱州豆腐や鯨ずーしーを作れる人はわずかだ。それでも、探せば、聞けば、よみがえり、つながるものもあるはずだ。そう信じて、私たちは新たなふしぎを探しに、また別の探検地へと向かうのだった。
参考文献
「鯨伏のむかし話」1977,長崎県壱岐郡勝本町鯨伏小学校郷土クラブ
「壱岐島の料理」1977,長崎県立壱岐商業高等学校郷土社会部
月川雅夫「日本の食生活全集42 聞き書 長崎の食事」1985,農山漁村文化協会
「江戸時代 人づくり風土記42 長崎」1989,農山漁村文化協会
中上史行「壱岐の風土と歴史」1995, 中上史行
「長崎県文化百選7 壱岐・対馬編」2001,長崎新聞社
「鯨塚からみえてくる日本人の心 2」2012, 農林統計出版
岸上伸啓「捕鯨の文化人類学」2012,成山堂書店
高正睛子「鯨料理の文化史」2013,エンタイトル出版
赤嶺淳「鯨を生きる」2017,吉川弘文館
藤井弘章「日本の食文化4 魚と肉」2019,吉川弘文館
「特別展 和食~日本の自然、人々の知恵~公式ガイドブック」2023,朝日新聞社
津田憲二・藤本聡「捕鯨に生きる」2023, 共同船舶株式会社

